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弥生時代〜古代

成重遺跡の想像図
(香川県埋蔵文化財センター提供)湊川は讃岐山脈の檀持山(東かがわ市五名とさぬき市大川町の境界)に水源を発し、東かがわ市湊で播磨灘に注ぎ、下流部は沖積平野を形成しています。
弥生時代(約2,000〜1,800年前)には、この平野の微高地や緩斜面に成重遺跡(東かがわ市白鳥)や池の奥遺跡(同所)などの集落がみられます。恵みをもたらす湊川ですが、成重遺跡でも洪水による砂礫層が確認され、古くから湊川流域では水害という問題を抱えていたことがわかります。
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中世〜近世

大内郡松原村塩田之図 明治時代
(鎌田共済会郷土博物館蔵)戦国時代、豊臣秀吉の命により、天正15年(1587)に生駒親正が讃岐国17万3,000石に封ぜられて引田城(東かがわ市引田)に入りました。このとき、生駒親正が赤穂から塩業技術を安戸塩田(同市引田)や松原塩田(同市松原)に伝え、明治44年(1911)に廃止となるまで当地の重要な産業として多くの人々が従事しました。
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近世
白鳥神社高松藩初代藩主松平頼重は、寛文4年(1664)に白鳥神社の社領200石を幕府に申請して朱印地としました。その後も歴代藩主の手厚い保護と人々の信仰に支えられ、近隣の村々だけでなく阿波など讃岐国以外からも講を組織して多くの参拝者が訪れて、西讃の金毘羅さん(金刀比羅宮)と並ぶ繁栄を続けました。
朱印地のため、門前の町屋の年貢は神社に納め、社家や楽人の屋敷地は年貢が免除されるなど特権が認められていました。
東かがわ市湊にある向山翁砂糖開基碑大内郡湊村(東かがわ市湊)の向山周慶(さきやましゅうけい)が江戸時代の中ごろ、寛政年間(18世紀後期)に砂糖の製造に成功しました。これにより東讃地方に砂糖の製造が普及し、のちに砂糖が讃岐三白の一つとして知られるようになりました。
しかしながら明治時代になると、廃藩置県に伴って高松藩の保護がなくなった上、外国から安価な砂糖が輸入されようになったことから、東讃地方の製糖業が衰退に向かいます。
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大正8年(1919)に浅越商店白鳥支店が
白鳥神社に奉納した花筵手袋と同時期に白鳥本町で始まった産業に花筵(はなむしろ)があります。花筵とは様々な色で染めたい草で模様を織り込んだゴザです。
当時、同町周辺において農家の婦女子の職業は多くありませんでした。これを考えていた大内郡帰来村(東かがわ市帰来)の観音寺の住職山田真端は岡山県から指導者を招き、花筵製造を始めました。この生産量も増加し、大正4年(1916)には日本で第3位の生産地となりました。しかしながら、戦時体制のため受注も減少し、昭和16年(1941)には花筵製造を休業するに至りました。

